歴史・時事

【日本史】明治政府における不平等条約改正の流れを詳しく分かりやすく解説します。

 今回のテーマは日本史です。1868年から始まった明治時代、明治政府はいわゆる「明治維新」を進めていくわけですが、政府にとって乗り越えなければならない壁がありました。それは不平等条約の改正です。

不平等条約とは?

 不平等条約とは、その名の通り片方の国にのみ不平等な内容を押し付ける条約のことです。当時、改正されるべき不平等な内容は主に2つありました。

1. 領事裁判権を認めていた

 領事裁判権とは、外国人が日本で犯罪を犯した際に、その国の法律に従い、その国の裁判官によって裁判を受けることができる権利のことをいいます。つまり、アメリカを例に挙げますと、アメリカ人が日本で犯罪を犯しても日本人裁判官が判決を下すことができず、アメリカの法律のもと、アメリカ人裁判官によって判決が出されてしまいます。

 後で出てきますが、この領事裁判権により引き起こされた有名な事件としてノルマントン号事件などがあります。

 もちろんこの条約は日本にとって一刻も早く改正されるべきものでした。

2. 関税自主権がない

 関税自主権とは、外国からの輸入品に対して日本が独自に税(関税)をかけることができる権利のことをいいます。そのため、輸入品に対して関税を自由にかけれないということは、外国からの安い商品がどんどん日本に輸入され、日本の産業はダメージを受けてしまいます

 この2つの不平等条約が明治政府にとって改正しなければならない重大事項でした。

不平等条約はいつ結ばれた?

 時は明治時代の1つ前の時代、江戸時代に遡ります。日本は江戸時代、長くに渡って鎖国をしてきましたが、1853年アメリカから黒船を率いたペリーが来航し、開国することとなりました。

 その後アメリカとの交渉は続けられ、1858年に大老井伊直弼はアメリカ総領事ハリスの圧力に押され、天皇の勅許を得られないまま日米修好通商条約を結びます。この条約に、先ほどの2つの不平等な内容の条項が定められていました。 

 また、日本はアメリカとだけではなく、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも類似の条約を結ぶこととなりました。これを安政の五カ国条約といいます。つまり、日米修好通商条約はこの安政の五カ国条約の1つだったということです。

条約改正へ向けて〜1. 岩倉使節団

 そして明治時代、江戸時代に結んでしまった不平等条約を改正しようとたくさんの政府関係者が尽力しました。

「岩倉使節団」の画像検索結果
岩倉使節団。左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通(出典wikipedia)

 まずは、1871年(明治4年)右大臣岩倉具視を大使とする岩倉使節団が欧米に派遣され、アメリカとの交渉を行いました。

 しかし、アメリカとの交渉はうまくいかず、岩倉使節団は欧米国家の発展した政治や産業の状況を視察して帰ってきました。これは後の西郷隆盛、板垣退助らによる征韓論を反対するきっかけになります。(詳しくはこちらの記事をどうぞ)

2. 寺島宗則外務卿

 岩倉使節団の交渉失敗を受けて、1876年(明治9年)から外務卿の寺島宗則が交渉を始めます。寺島宗則は、同時期に領事裁判権と関税自主権の両方を回復させることは難しいとして、関税自主権の回復を目指しました。

「寺島宗則」の画像検索結果
寺島宗則 (出典 Wikipedia)

 アメリカと交渉を重ねた結果、関税自主権の回復にほぼ成功しましたが、イギリス・ドイツ・フランスの反対により無効となってしまいました。

 ここで、日本でイギリス人によるアヘン密売事件が発生しました。領事裁判権を認めている日本はこのイギリス人ももちろん日本人判事によって裁くことはできず、結局このイギリス人は無罪となりました。これに国民は激怒し、領事裁判権の撤廃が最優先だとして寺島は非難を浴びることとなりました。結局、寺島は辞職することになりました。

3. 井上馨外務卿

 岩倉具視、寺島宗則の交渉失敗を引き継いだ井上馨外務卿(のちの外務大臣)の外交のもと、1887年に領事裁判権を原則撤廃する改正案が欧米諸国によって了承されました。

 しかし、この領事裁判権の撤回には、「日本国内を外国人に解放する内地雑居」さらに、「欧米と同じ法典を編纂すること、外国人を被告とする裁判には半数以上の外国人判事を必要とすること」が条件として定められていました。

 これに対して国民は大反対。さらに、井上馨の交渉促進のために取った極端な欧化政策(鹿鳴館外交)に対する反感も買い、井上は外相を辞任することとなりました。

「鹿鳴館外交」の画像検索結果
鹿鳴館外交(出典 Wikipedia)

4. 大隈重信外務大臣とノルマントン号事件

 その後を任されることとなった大隈重信外相は、アメリカ・ドイツ・ロシアとのあいだに改正された条約を結ぶことに成功しました。しかし、この条約では大審院への外国人判事の採用を認めていたことで、政府内外から批判が集まります。

 また、1886年(明治19年)にとんでもない事件が起こります。ノルマントン号事件です。暴風雨によって、横浜から神戸に向かうイギリスの船が沈没してしまいました。その際、イギリス人船長は日本人乗客25人全員を見殺しにし、イギリス人だけを助けました。乗客のイギリス人は全員無事でした。

 しかしその後の裁判では、イギリス人船長の過失は認められないとして、とても軽い刑だけが下されました。この時の裁判官はもちろんイギリス人です。

 この事件は世間の反感を買い、大隈外相は交渉を続けていくのですが、1889年、大隈は玄洋社の青年により襲撃され、右足を失う大怪我を負いました。そして大隈襲撃事件のもと、条約改正の交渉は再び中断することとなりました。

5. 青木周蔵外務大臣と大津事件

 次に、青木周蔵外相が交渉を再び開始させます。青木周蔵は、条約改正最大の難関であったイギリスとの交渉を進め、イギリスを条約改正に応じさせる一歩手前まで来ました。

 しかし、1891年(明治24年)大津事件が起こってしまいます。大津事件とは、日本を訪れたロシア皇太子が琵琶湖を歩いている最中に、滋賀県の巡査津田三蔵によって切りつけられた事件です。ロシアとの関係悪化を懸念した政府は、大逆罪を適用して津田三蔵を死刑にするように裁判所に求めましたが、大審院長 児島惟謙はこれを却下。犯人に対して適法の無期懲役の判決を下し、司法権の独立を守りました。

 この事件の責任を取る形で、青木周蔵は辞任することとなりますが、この事件がきっかけとなり、条約改正への道を大きく進むこととなります。

6. 陸奥宗光外相

 大津事件の結果、日本の司法は政府からの圧力にも屈しないとして各国からの信頼を集めることとなりました。

Munemitsu Mutsu 2.jpg
陸奥宗光(出典Wikipedia)

 そして第二次伊藤内閣の外務大臣である陸奥宗光は、1894年(明治27年)イギリスとの間に日英通商航海条約の調印に成功しました。この条約には領事裁判権の撤廃が定められており、遂に長年の目標であった領事裁判権の撤廃を果たすことができました。

7. 小村寿太郎外相

 残された関税自主権の回復も、日本が日清戦争、日露戦争で勝利を収めたことによって世界的な地位をあげていったことに伴い、1911年(明治44年)小村寿太郎外相はアメリカとの間に日米通商航海条約を結ぶことができました。この条約のもと、関税自主権の回復が認められたとともに、江戸時代から引きずっていた不平等条約の完全撤廃を果たすことができました。

「小村寿太郎」の画像検索結果
小村寿太郎(出典Wikipedia)

まとめ

 日本は江戸時代に結ばれた不平等条約をおよそ半世紀かけて撤廃しました、当時は世界における地位は低かったのですが、不平等条約の改正後、国際的な地位を高めていきました。それが国際連盟への加盟に繋がっていきます。

 

 

ABOUT ME
げんぼー
大阪出身の20歳大学生です。大学から中国語の勉強を始め、1年生の夏休みに中国の蘇州へ短期留学をして、台湾の大学へ1年間交換留学をしました。 旅をすることが好きで、台湾本島一周や中国大陸横断ひとり旅なども経験しました。このブログでは、台湾の情報について主に紹介していこうと思います!少しでも読者さまにとって有益な記事を書けるように努めたいと思います!趣味はプロ野球観戦と写真撮影です! インスタグラムでは中国語話者向けに日本語を、日本人向けに中国語を教えるアカウントを始めました!よければそちらもご覧ください! @genbo_japanese HSK6級/TOEIC850点/英検準一級