こんにちは。前回に引き続き日本史シリーズ、今回は明治時代の最重要事項の1つである、自由民権運動についての解説をしたいと思います。
そもそも自由民権運動とは?
高校の日本史の教科書にも頻出の自由民権運動ですが、一体どういう意味なのかご存知ですか?自由民権運動とは、簡単に言うと「自由を求める政治活動」のことです。具体的には、国会の開設、国民の政治参加などを要求しました。
当時の明治政府は、薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩の人間が実権を握る、いわゆる藩閥政治と呼ばれるものでした。なぜ薩摩や長州など4藩の人間が権力を持つことができたのかと言うと、江戸幕府討伐に最も尽力したからです。
しかし、藩閥政治が始まると、彼らは国民の意見を無視したりすることが増え、国民の不満がどんどん高まっていくことになりました。
明治6年の政変
さて、事の発端は1873年(明治6年)に起こった明治6年の政変です。明治6年の政変とは、板垣退助、西郷隆盛らが唱えた征韓論(朝鮮を武力で制圧する考え)が、岩倉使節団の一員として欧米の発展した街や政治体制などの視察から帰国した大久保利通、伊藤博文らの強い反対を受け、板垣らが下野(政界を去ること)した出来事です。
大久保利通、伊藤博文らが征韓論に反対した理由は、「朝鮮を制圧している場合じゃない、日本は欧米諸国に比べてとても遅れているので、今は日本の国力をあげることが最優先だ。」といったものでした。
この2つの考えが論争を引き起こした挙句、大久保利通、伊藤博文らが勝利し、征韓論を唱えた板垣、西郷らは政界を去り、帰郷しました。

地方武士の反乱
江戸時代に最も高い地位であった武士たちは、明治政府による秩禄処分や、廃刀令により全ての特権を奪われました。
秩禄処分とは、当時政府は華族・士族に対して家禄・賞典禄(合わせて秩禄)といった褒美を与えていたのですが、その支出が政府の財政を圧迫していたことから、1876年にそれらの付与を全廃したことです。
また、武士たちにとって刀は命の次に大事商売道具でした。それが廃刀令により持つことを禁じられてしまったのです。当然、政府に対する怒り、不満は募っていきます。彼らは征韓論に敗れたメンバーたちと手を組み地方で反乱を起こします。
征韓論に敗れたメンバーが政界を去って帰郷した後、征韓論を唱えた1人であった江藤新平は郷里の佐賀で反乱を起こしたり(佐賀の乱)、山口県で前原一誠による反乱など、同じく政府に不満を持つ地方の武士たちと協力して各地で反乱が相次ぎました。最も大きかったのは1877年の西郷隆盛を首領とする西南戦争です。しかし、これらの反乱は全て政府により鎮圧されました。


政府による反乱の鎮圧は徴兵制度による軍隊の強さを証明することにもなったよ
このように征韓論を唱えた人間たちが各地で反乱を起こす中、板垣退助だけは武力ではなく言論で解決しようとします。ここから自由民権運動が本格的に始まっていきます。
自由民権運動の始まり
まず、板垣退助は後藤象二郎とともに愛国公党を結成し、イギリス帰りの知識人の助言を得て作成した民選議院設立の建白書を左院に提出します。これは、政治は国民が選んだ者によって進められるべきだというもので、国民の意見に基づいた政治を行うための国会の設立を求めました。
以前まで政府関係者であった板垣が突然政府を批判をしだしたことは、地方の武士たちにも勇気を与えることとなりました。民選議院設立の建白書を提出したことは新聞で大きく報道され、自由民権運動の動きが土佐を中心に全国に広がっていきました。
その後、1874年(明治7年)板垣は郷里の土佐で片岡健吉らと立志社を設立し、翌年大阪に愛国社をおこしました。
漸次立憲政体樹立の詔
これらの団結した動きの中、大阪会議での話し合いもあって政府は1875年4月に漸次立憲政体樹立の詔を出し、時間をかけて立憲制に移行していくことを決めました。さらに元老院(立法諮問機関)、大審院(最高裁判所)、地方官会議を設置し、元老院では翌年の1876年から憲法草案の起草が開始されました。

大阪会議では、大久保利通と木戸孝允、板垣退助の3人が話し合い、徐々に国会を開設していく方針をとるべきだという結論に至りました。(その後木戸と板垣は一旦政界に復帰します)
そんな中、マスコミらによる過激な政府批判を弾圧するために、政府は讒謗律(ざんぼうりつ)・新聞紙条例を出して厳しく取り締まりました。
立志社建白
一方で、自由民権運動の中心であった立志社は、国会の開設を求める意見書(立志社建白)を天皇に提出しようとしましたが、却下されました。これにより一時停滞した民権運動でしたが、一時解散状態にあった愛国社が大阪で再興したことをきっかけに、運動は士族だけにとどまらず地主や商工業者などの間にも広まっていきました。
国会期成同盟の結成
そして1880年(明治13年)には国会期成同盟が結成され、「国会を必ず作らせる」という強い決意のもと各地の政社の代表者が団結しました。彼らは天皇に向けて国会開設の申し入れをしましたが、政府はこれをまたも却下、それどころか集会条例を定めて政社の活動を抑え込みました。
国会期成同盟は11月に第二回大会を東京で開きますが、なかなか意見がまとまらずに散会しました。その後、板垣退助を党首とする自由党が結成されました。
明治14年の政変
これまでなかなか進展がなかった民権運動でしたが、ある事件をきっかけに形勢が逆転します。
1878年(明治11年)に政府の重要人物であった大久保利通が暗殺されてから実力者がいなかった明治政府内では、大隈重信と伊藤博文が激しく対立していました。
そんな中、開拓使官有物払い下げ事件という汚職事件が起こり、関与していたのではないかとマスコミに疑われた大隈重信は政界を去ることとなりました。これを明治14年の政変といいます。

開拓使官有物払下げ事件とは、旧薩摩藩出身の黒田清隆が北海道の開拓使に属する官有物を同じ薩摩藩出身の五代友厚らが率いる関西貿易社に不当に安い価格で払下げようとした事件のことだよ
しかし、大隈を罷免した後も国会期成同盟を始めとした自由民権運動の盛り上がりは鎮まることを知りませんでした。さすがにこれ以上は過熱した民権運動を無視できないとして、政府は遂に国会開設の勅諭を出し、10年後の1890年に国会を開設すると約束しました。
その後、伊藤博文らを中心とする薩長政権が確立され、迫った国会開設に向けての準備が進められていきました。
その後
その後、1886年ごろからドイツ人顧問であるロエスレルらの助言のもと極秘に伊藤博文・井上毅(こわし)・伊東巳代治・金子堅太郎らを中心に憲法起草が進められ、1889年(明治22年)2月11日に大日本帝国憲法が発布されました。また、10年前の約束通り国会が開設されました。板垣らが指導した自由民権運動は民意が認められる形で成功を遂げることとなりました。

この大日本帝国憲法の特徴は、天皇が定めて国民に与える欽定憲法であり、天皇にはとてつもなく強い権限が与えられました。現在の日本国憲法は国民が主権とされていますが、大日本帝国憲法では天皇が主権とされていました。
まとめ
実は板垣退助はこの自由民権運動の途中、岐阜県で演説をしている際に襲われてしまいました。そんな状況の中、「板垣死すとも自由は死せず」と言い放ち、自分の死を覚悟しながらも自由民権運動への執着を見せました。運良く板垣は一命を取り留め、その後も活動を精力的に続けていくのですが、どれだけ板垣が自由民権運動に命を懸けていたかがわかりますよね。
自由民権運動は今の国会の基盤を作るきっかけとなり、その後の日本に大きく影響を及ぼすこととなりました。最後まで読んでいただきありがとうございました。