台湾

【歴史】日本統治時代の台湾について。どのような統治が行われたのか?台湾民主国とは?台湾に親日が多いのは何故?

はじめに

 皆さんおはようございます。私は現在台湾の大学で台湾史の授業を受講しており、授業を受けて文献を読んでいくにつれて、日本人として歴史の関わりが深い台湾の歴史を知ることは日本史を知るのと同じくらい必要なことだという考えが強くなってきました。そこで、是非とも日本の皆さんにも台湾の歴史について知っていただきたいと思い、台湾史についての記事を書くことにしました。

 台湾が昔、日本の植民地だったことはもちろんご存知ですよね?台湾は1895年から第二次世界大戦が終焉する1945年までの50年間、日本の植民地となりました。その間、たくさんの日本政府関係者が台湾に渡り、近代化に向けて尽力しました。

それではこれから詳しく解説していきたいと思います。

1894年 日清戦争

 事の始まりは1894年に勃発した日清戦争です。日清戦争では、朝鮮を巡って日本と清(中国)が対立しました。結果、日本の勝利に終わるわけですが、翌年両国の間に講和条約が結ばれました。これを下関条約(中国語で馬關條約)と言います。

 日本は伊藤博文と陸奥宗光が、清は李鴻章が全権を握り条約に調印しました。この条約では、主に4つのことについての取り決めがなされました。

  1. 清は朝鮮の独立を認める
  2. 清は日本に賠償金2億両を支払う(ほとんどが軍事費に充てられました)
  3. 清は新しく沙市、重慶、蘇州、杭州の4港を開港する
  4. 清は日本に遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲する

 この下関条約のもとで日本は台湾を占領することが決まりました。(澎湖諸島は台湾に属する島です)

 *清から割譲を受けた遼東半島については、当時アジアへの進出を目指していたロシアがドイツ、フランスと協力して日本に圧力をかけた結果(三国干渉)、日本は三国の圧力に押され占領を諦めました。

台湾割譲後〜台湾民主国の誕生〜台湾北部の制圧

 台湾は日本にとって初めて獲得した植民地であったことや、当時は帝国主義の時代であったことから、日本政府は全力をあげて近代化を進めようとしました。しかし、台湾人からしたらどうでしょうか。ある日急に日本人がやってきて「今日から日本語を話せ」と言われても到底すぐに受け入れられるものではありませんでした。当然、反対や反乱が起こります。

 台湾北部では張之洞(ちょう・しどう)や唐景崧(とう・けいそう)が「台湾民主国」を指導します。台湾民主国とは台湾が割譲されてから日本が統治を本格的に開始するまでの148日間続いた台湾初の独立国家かつ、アジア最初の共和制国家です。唐景崧は台湾民主国の総督となり、抗日活動を開始しました。

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張之洞(出典wikipedia)
唐景崧(出典wikipedia)
台湾民主国の国旗(出典wikipedia)

 しかし、日本は近衛師団を率いて、強力な武力を持って台湾に上陸してきました。日本軍はまず澳底に上陸し、その後瑞芳、基隆へと進出してきました。

 基隆城が陥落すると、台湾軍はとても混乱します。そこで、このまま武力で逆らえば秩序が失われるとして、辜顯榮(こ・けんえい)は日本軍を台北城に「無流血入城」させることを決断しました。

 無流血入城がなされたことで台湾の統治が開始したかと思えばそう簡単にはいきませんでした。台湾北部はすんなりと日本軍の進攻を受け入れたのに対し、台湾南部では更に抗日感情が高まっていきました。南部では劉永福(りゅう・えいふく)を中心に激化した抗日活動が続けられていきます。

台湾南部の抗日活動

 台湾北部の抗日活動で招集された軍人たちは主に中国大陸から集められた者だったのに対して、台湾南部では主に原住民たちによって自発的に組成された者たちでした。国を守るという意識が特に強かったため、抗日活動は激化しました。

 日本は強力な軍を率いて南部へ進攻してきました。その際に、日本軍が無差別殺人や強姦を繰り返したことは台湾人の復讐心に火を付けることとなります。

 ただ、日本軍と台湾軍の武器のレベルの差は圧倒的で、台湾軍にとって勝算のない戦いとなりました。劉永福は降参し、イギリスの船に乗って廈門(アモイ)に逃れました。これにより、日本は遂に台湾全土を統一しました同時に、148日間続いた台湾民主国は終焉を迎えることとなりました。

 しかし、台湾民主国においての抗日活動は本当の独立運動ではなく、その意図は自分の郷里と財産を守ることにあったと指摘する学者もいます。

 また、この抗日運動で殺害された台湾人の数は1万4000人にものぼると言われています。日本と台湾の間にはこのような残酷な歴史があるのが事実です。それなのになぜ台湾人には親日な人が多いのでしょうか。その答えは記事の最後に書きたいと思います。

台北城に進軍する日本軍(出典wikipedia)

台湾総督府の設置

 このようにして統治が始まったわけですが、日本政府は早速大きな問題に直面します。それは、台湾は熱帯気候で、当時劣悪な衛生環境にあったということでした。日本軍との攻防戦の中で、病死者が戦死者の40倍を占めるほど病気が蔓延していました。

 乃木希典は、伊藤博文に対して「日本人の生命と日本政府の財政を守るためにこんな国はフランスに売り払いましょう。」と建議したくらいです。

 しかし、児玉源太郎は自ら総督に志願して、後藤新平らとともに全身全霊をかけて台湾の発展に寄与していくことになりました。結果的に、台湾は驚異的な現代化を遂げることになります。

「児玉源太郎」の画像検索結果
児玉源太郎(出典wikipedia)

 日本政府は台湾総督府を設置し、後藤新平や新渡戸稲造をはじめとした一流の人材を派遣しました。

台湾総督府(出典wikipedia)

医療と衛生問題

 先述した通り、当時の台湾には病気が蔓延していました。台湾総督府は、統治を始めていく前に何よりも重要なのはこの問題を解決することだと考えました。

 そこで1900年(明治33年)「台湾家屋建築規則」や「台湾汚物掃除規則」を発布します。これらの規則では、住居を建設する際には、換気ができる場所、排水設備、便を溜めておく場所を設置することを義務化しました。また、監視員を不定期に家に検査に行かせ、民衆たちに住居の中やその周辺を清潔に保つ習慣をつけさせました。

 さらに、上下水道の建設も必要不可欠なことでした。当時の台湾には台北でさえ上下水道の整備ができておらず、民衆は井戸水、雨水を利用することで生活していました。そこで総督府はイギリス人技師のバートンを招き、上下水道の建設を依頼しました。彼の努力のもと、1899年には淡水に「滬尾水道(淡水水道)」、1902年には基隆に「基隆水道」を完成させました。

 しかしバートンはマラリアに感染し死亡してしまいます。彼の学生であった濱野彌四郎はバートンの遺志を引き継ぎ、1940年までには台湾全土の小さな町でさえ上下水道を完成させました。

 同じように病院の建設も次々と進められて行きました。1895年に台北に病院を建設してから2~30年で台湾中の9箇所に病院を建設しました。

台湾総督の3つの事業

 台湾総督は主に3つの事業に着手しました。1つ目は旧慣調査、2つ目は戸口調査、3つ目は土地調査です。

 旧慣調査とは、台湾の法、農工商経済に関する旧慣習を調べることです。台湾には当時清の政府のもとで行われてきた様々な制度がありました。それらの制度や慣習を軽々しく変えてしまえば、民衆のパニックを引き起こすだけではなく、今ある良善な制度をも消失させることにも繋がりかねないとして、1901年に臨時台湾旧慣調査会を成立させ、これからの政策、立法への参考としました。

 戸口調査の目的としては、台湾には複雑な言語を操る様々な人種がいて、その複雑な人口関係を明らかにするために実施されました。人口調査の実施は日本政府にとって台湾の社会を理解する最も良い方法でした。その結果、1905年の台湾総人口は303万9751人だと判明しました。

 そして土地調査です。1898年から1904年に行われた6年間の土地調査の結果、大量の隠田が発見されました。以前の劉銘傳の時代に行われていた測量では全台湾に36万甲とされていましたが、実際には2倍近くの63万甲もあることが明らかになりました。

教育

 総督府は台湾人に対して徹底した日本語教育を行いました。初等教育の一環として、1895年に芝山岩学堂を設置し、学部長に伊沢修二を任命しました。芝山岩学堂は台湾初の日本語教育学校です。

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伊沢修二(出典wikipedia)

 さらに翌年には国語伝習所を設置し、日本語翻訳の人材を養成しました。

 1898年には公学校を設置し、日本語を教えるだけではなく、国語、歴史、地理、算術、音楽、体育などを含めた、いわゆる普通教育が進められました。

 1919年には「台湾教育令」が出され、台湾人の教育制度を確立させ、中等学校、高等学校をひっきりなしに設立しました。

 こうした努力のもと、1904年にわずか3.8%であった台湾人の入学率(日本人67.7%)は1944年に71.3%(日本人99.6%)までになりました。

 台湾の人たちは日本語を学ぶことで様々な近代的な知識や情報を得られるようになりました。

八田與一によるダム建設

 八田與一は台湾の嘉南平野に当時アジア最高峰の技術を駆使してダムを建設しました。当時の嘉南平野は乾燥していて、作物が全く育たない荒地でした。ダムの建設に地域住民の反対もありましたが、八田は生涯をかけてダムの建設に寄与し、結果として嘉南平野は一面に広がる農業地帯へと生まれ変わりました。

 そしてダムの建設地には八田の功績を称える銅像が建設されました。台湾の歴史の教科書には八田與一の名前が重要人物として書かれていて、台湾人なら誰もが知っています。

烏山頭ダムの建設に尽力した八田與一の銅像(photo by げんぼー)

第二次世界大戦〜台湾返還

 こうして続けられた統治も第二次世界大戦により終焉を迎えることとなりました。日本は太平洋戦争に敗れ、その後の講和条約で今までに獲得した全ての植民地を放棄することが定められ、以降台湾は日本の植民地ではなくなりました。

 その後台湾には中国本土から国民党が逃れてきましたが、台湾の人たちは腐敗しきった国民党の人間に失望しました。当時台湾は日本の統治のもとで、アジアでも屈指の発展を遂げた場所でした。デパート、エレベーターなどもありました。

 しかし中国からやってきた国民党の人間たちはきちんとした教育を受けていないので読み書きすらできず、台湾の人たちは到底国民党の人間に従うことなどできませんでした。

 そのため、こんな国民党に従うくらいなら医療、教育、衛生など様々な面で発展を遂げることができた日本統治時代の方が断然良かったと思う人が後をたちませんでした。この考え方が時代を超えて引き継がれたことで、台湾に親日の人が多いとされています。

 

まとめ

 今回の記事では台湾史について取り扱いました。日本と台湾にはこのような歴史があったことを知らなかった方も多いかと思います。私も以前は全く知りませんでした。

 台湾の歴史を知ることで台湾のことをより深く知ることができます。また是非機会があれば台湾史について調べたりしてみてください。本ブログでもまた台湾の歴史についての記事は継続して書いていこうと思っています。最後まで読んでいただきありがとうございました!!

 

 

 

 

ABOUT ME
げんぼー
大阪出身の20歳大学生です。大学から中国語の勉強を始め、1年生の夏休みに中国の蘇州へ短期留学をして、台湾の大学へ1年間交換留学をしました。 旅をすることが好きで、台湾本島一周や中国大陸横断ひとり旅なども経験しました。このブログでは、台湾の情報について主に紹介していこうと思います!少しでも読者さまにとって有益な記事を書けるように努めたいと思います!趣味はプロ野球観戦と写真撮影です! インスタグラムでは中国語話者向けに日本語を、日本人向けに中国語を教えるアカウントを始めました!よければそちらもご覧ください! @genbo_japanese HSK6級/TOEIC850点/英検準一級